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ジョン・アデア (ケンタッキー州知事) : ミニ英和和英辞書
ジョン・アデア (ケンタッキー州知事)[こと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ケンタッキー : [けんたっきー]
 【名詞】 1. Kentucky 2. (n) Kentucky
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [す, しゅう]
 (n) sandbank
知事 : [ちじ]
 【名詞】 1. prefectural governor 
: [こと]
 【名詞】 1. thing 2. matter 3. fact 4. circumstances 5. business 6. reason 7. experience 

ジョン・アデア (ケンタッキー州知事) : ウィキペディア日本語版
ジョン・アデア (ケンタッキー州知事)[こと]

ジョン・アデア(、1757年1月9日 - 1840年5月19日)は、ケンタッキー州選出アメリカ合衆国下院議員、上院議員および第8代ケンタッキー州知事を務めたアメリカ合衆国政治家軍人、開拓者である。現在のサウスカロライナ州で生まれ、アメリカ独立戦争ではサウスカロライナの民兵隊に仕え、その間イギリス軍に2度捕まって戦争捕虜となった。戦後、アメリカ合衆国憲法を批准するためのサウスカロライナ会議代議員に選ばれた。
1786年にケンタッキーに移転した後、北西インディアン戦争に従軍し、1792年にはセントクレア砦近くでマイアミ族インディアン酋長リトル・タートルと小競り合いを演じた。この2つの戦争で人気を得て、1792年にはケンタッキーの憲法制定会議代議員に選ばれて政界に入った。1793年から1803年の間にケンタッキー州議会下院では通算8期を務めた。1802年と1803年には下院議長を務め、1799年には第二次州憲法制定会議代議員となった。1805年、アメリカ合衆国上院議員のジョン・ブレッキンリッジアメリカ合衆国司法長官に就任するために辞任したことに伴い、ブレアがその空席を埋めた。しかし、アーロン・バーの陰謀に連座したために、次の選挙では再選されなかった。その後に続いた長い法廷闘争により、ブレアは全ての罪状について無罪とされ、その告発者ジェイムズ・ウィルキンソン将軍は謝罪文書を発行するよう命令されたが、否定的な評判のために10年間以上も政界から締め出されていた。
米英戦争に参戦し、ニューオーリンズの戦いでケンタッキー州の兵士が臆病だったというアンドリュー・ジャクソンによる告発に対し、長期化した弁護を行って評判を回復した。1817年に州議会下院議員に復帰した。独立戦争でアデアの上官だったアイザック・シェルビーが2度目のケンタッキー州知事を務めており、アデアを州民兵隊の長官に指名した。1820年、1819年恐慌で苦況に陥ったケンタッキー州人を財政的に救済することを綱領として州知事に当選した。この目的のために行った主要な行動は州立銀行の創設だったが、その他の財政的改革の多くはケンタッキー州控訴裁判所によって違憲と判断され、旧裁判所と新裁判所の論争に発展した。知事の任期が明けた後は、アメリカ合衆国下院議員を1期のみ務めたが、再選は求めなかった。アデアは1840年5月19日に、ハロズバーグの自分の農園で死んだ。ケンタッキー州、ミズーリ州およびアイオワ州にアデアに因むアデア郡があり、またケンタッキー州アデアビル市とアイオワ州アデア市も同様である。
== 初期の経歴 ==
ジョン・アデアは1757年1月9日に、サウスカロライナ植民地チェスター郡で生まれた。父はスコットランドからの移民バロン・ウィリアム・アデア、母はメアリー(旧姓ムーア)だった〔Harrison in ''The Kentucky Encyclopedia'', p. 1〕〔Smith, p. 168〕。ノースカロライナ植民地シャーロットの学校で教育を受け、アメリカ独立戦争が始まったときはサウスカロライナ民兵隊に入隊した〔"Adair, John". ''Biographical Directory of the United States Congress''〕。トマス・サムター大佐が指揮する、友人エドワード・レイシーの連隊に入り、ロッキーマウントにあったロイヤリスト前進基地襲撃では失敗したが、ハンギングロックの戦いでは勝利した〔Fredricksen, p. 2〕〔Scoggins, p. 150〕。1780年8月16日のキャムデンの戦いでイギリス軍が勝利したときに捕虜になった〔Hall, p. 1〕。捕虜として収監されている長い間に天然痘に罹り、また厳しい待遇を受けた〔。一旦は逃亡したが、天然痘に罹っていたための困難さがあったために安全圏まで行けず、3日後にはイギリス軍のバナスター・タールトン大佐に捕まえられた〔。その後、捕虜交換で釈放された〔。1781年、サウスカロライナ民兵隊の中尉に任官され、両カロライナで起きた最後の会戦であるユートースプリングスの戦いに参戦したが、引き分けた〔。戦後、エドワード・レイシーがチェスター郡の保安官に選出され、アデアはレイシーが務めていた治安判事に就いた〔。アメリカ合衆国憲法を批准するためのサウスカロライナ会議では代議員に選ばれた〔。
1784年、アデアはキャサリン・パーマーと結婚した〔Bussey, p. 26〕。12人の子供に恵まれ、うち10人は女の子だった〔。その内の1人はトマス・ベル・モンローと結婚した。モンローは後にアデアがケンタッキー州知事を務めたときの州務長官となり、連邦裁判所判事にも指名された〔Morton, p. 13〕。1786年、アデアは西のケンタッキーに移り、マーサー郡に入植した〔"John Adair". ''Dictionary of American Biography''〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョン・アデア (ケンタッキー州知事)」の詳細全文を読む




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